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台湾便り 台北散歩(2) 芝山巌 [台北]

捷運(地下鉄)の芝山駅を出て福國路を東に進み、忠誠公園の脇を通り抜けると、正面に芝山巌のこんもりとした森が現れます。ここには第二次大戦前まで「芝山巌神社」があって、台湾の教育に殉じた多くの日本人が祀られていました。歴史を紐解くには明治時代まで遡らねばなりません。

1895年に台湾で日本の統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、教育が最優先課題のひとつであるとして、日本全国から集めた志ある若者を連れて台湾へ渡り、「芝山巌学堂」という学校を設立しました。教師は、楫取道明 (38歳) 、関口長太郎 (37歳)、中島長吉 (25歳)、桂金太郎 (27歳)、井原順之助 (23歳)、平井数馬 (17歳) の6名でした。

熱心な授業が次第に地元の人たちに受け入れられて行く一方で、日本の統治に強く反対する人たちによる暴動が起こり、1896年の元旦に全員が抗日運動の標的となって殺されるという痛ましい事件が起きました。

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芝山巌の北側にある聖佑宮から、大葉雀榕が欝蒼と葉を茂らせる森の中の石段を登って北門を抜けると

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やがて恵斎宮に到ります。

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台湾の廟で神道の御神体である鏡が祭壇に置かれることは普通考えられず、かつてここが神社であったことを偲ばせます。

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恵斎宮からリスが遊ぶ緑深い森をしばらく東に向かって進むと、左手の少し開けた場所に「六氏先生の墓」がありました。墓石が真新しいのは、日本の敗戦によって元の墓石が神社とともに破壊され、1995年に再び士林小学校卒業生有志によって再建されたためです。

基隆や高雄の築港、台北の下水道整備、台南の灌漑ダム、全島を巡る鉄道などの建設事業とともに、台湾大学の設立に代表される教育の整備など、明治中期から昭和にかけて、多くの日本人が台湾に足跡を残しました。他民族を治めるということに正統性を見出すことはできませんが、100年前、20代、30代の若者が、どんな気持ちでこの国の礎の構築にエネルギーを注いだのだろうかと、苔むした森の道を歩きながらそんなことを考えました。
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